表現と評価について。

家でカラオケの点数を競う番組を観ていた。

 

全部をしっかり観たわけではないけれど、印象に残った歌、そうでなかった歌はあった。

その点数と印象に残るか否かはある程度相関はしているものの、きちんと比例関係にはならなかった。つまりは点数的は僅差であったのに、受けた印象は天と地ほど差があった物もあったのだ。

 

そもそも歌とは、音楽とはいかなる物なのか?色々な表し方があるとは思うけれど、やはり何かを表現するという事は、何かを伝えたい時に、感動や感情の揺れ動きを表す物だと自分は考えている。(もちろん一側面にすぎないとは思うのだが)

例えば恋だったり、友情だったり、旅情だったり、とある情景だったものを、素晴らしいと、時には辛くて仕方がないと、その思いを音符や楽器の調べ、歌詞などの言葉を添えて表すものだ。そこに技巧の巧拙があるのは当然だとして、さらに心を動かされるのはまた別の話だ。

 

つまり、時にはその技巧すらも凌駕して、聴衆はその音に心を揺さぶられる物だと自分は思う。願っていると言ってもいいかもしれない。

表現する者と、聴衆の条件がある程度揃って初めて音楽は人の心を動かす芸術になり得る。

表現者、つまりは歌手や奏者は技術を用いて簡単に表せない心情を表す。

対して聴衆、受取手は己が中の心の琴線に触れる物を感じて、心を動かすのである。つまりは感受性を豊かにするだけのその人のバックボーンが必要となる。

そして、その双方のやりとりの中で、受取手がどれだけ心が動いたかを表すのが、評価するという事なのだ。ここでその評価を表すのが点数、つまりは数量的に相対的評価をしやすくする方法がある。

 

端的に言えば私は今回のカラオケ番組で、正直にいうとこの点数評価が気にくわない。

 

勿論、カラオケの採点という土俵で競っているのだから歌という表現を、点数で評価するのは致し方ないし、ピアノのコンクールでも行われている事だから正当な物だという事は分かっている。

しかし、その評価をコンクールは審査員が行なっているのに対し、カラオケの機械が評価をしているのである。心の機微を分からない機械に、歌という芸術が評価されているのだ。これはとても滑稽な事だと、漠然と番組を見ながら思った。

だから途中から音程が取れているかは気にせず、その歌詞と旋律に乗せた思いがどれだけ、自分の心にどう響いたか、または刺さったのかを重点的に感じる事にした。

そうでなくては、音楽がつまらない物に思えてしまうからだ。相対的な点数に縛られず、自分の中にある絶対的な評価を心に残す。そうでなくては、この世は味気なさすぎる。

 

点数以外に何かを伝えられる表現を大切に。

ムーンライトで感じる尊さ

友達に勧められて見てきました。

 

ほぼほぼ予備知識なしで観て来たのですが、何とも言えない映画でした。

ただ、この「何とも」と言うのはネガティヴな物では無く、言葉で表しにくいという物です。

以下、ネタバレ含みますので観たくない人は、戻って頂けると幸いです。

 

 

表現として映像美や、音楽が素晴らしい作品なのは間違いのない作品。

月明かりの蒼は、息をのむほどの世界観でした。

登場人物の皮膚の黒と月光に照らされる青、シャツの白、そして暖色系の色彩も全て違和感なく収まっていたのが印象的。

音楽はちょっと違和感を覚えるものもあったけど、様々な音楽が使い分けられていて、音質の良い映画館で観られて本当に良かったと思う。

 

テーマとしては人を愛し、愛される事の難しさを表現しているのかな?と自分は感じました。

シャロンの一生を幼少期、少年期、青年期の三部に別けて、それぞれ別の俳優さんが演じていました。

そしてそれぞれの時代で貧困や麻薬、ネグレクト、いじめ、セクシャルマイノリティーなど様々な問題点を扱っているように思えます。

 

しかし、本当にそれだけが描きたかったのかと思うと、また違う気もするのです。

そうであるとすると色々なテーマを取り扱いすぎて、焦点としてはぶれてしまっていると思うのです。

その問題点に焦点があるとすれば、これはアカデミー賞を受賞していないのではないでしょうか。

 

誰もが思うように生きられない中で、流されざるを得ない状況で、可能な限り人は選択をする。

それが望み通りでないとしても、人が1日を生きる為に、生き延びる為には仕方のない事。

これは地球の裏側であっても、東京であっても、田舎であっても変わらないでしょう。

その悩みの業の深さや、危険度は様々であろうとも葛藤の無い世界など、まず無いと思います。

(もしそんな人生があったなら、深みがなく味気の無い物だと思いますが。)

その中で、自分を自分で殺さないように、また在りたい自分になるように、もがきながら生きていく。それでも、人は愛されるとは限らず、また認められるとは限らない。

でも、そんな針のむしろの中でお互いの事を認めて、ひと時でも認め合える。

その事を描いたのが、本作では無いのかと私は思うのです。

それは本当に奇跡のような物で、愛する側と、愛される側が同一の時間軸に存在して初めて感じられる美しい物。

どの年代でもシャロンに愛情は注がれているのだけれど、それが一致しない。

フウアからの愛情も、ケビンからの誘いも、一方通行であったり、すれ違いによって成立をしない。

シャロンが欲しいと感じていたであろういじめの無い世界や、平穏な家庭の日常には届かない。

それが、青年期のブラックとなって初めて通じ合うことができる。

母親ともケビンとも。

特にケビンとのやりとりは、非常に美しく描かれていました。

月の光と潮騒に包まれながら、お互いの気持ちを確かめ合うその光景は、性欲ですら美しく感じられました。夢の中で描かれる、ケビンの性交とは全く別の描かれ方をしていたのが印象的です。

自分はストレートの男ですが、そう感じました。

でも、だからと言ってこれがLGBTQをテーマとしているのでは無いと私は述べました。

そこが、ケビンがバイセクシャルであったりする所に現れているのだと思います。

これがゲイ同士のカップルであって、それらの社会的な制度に対して抵抗を見せるのならば、それがテーマなのでしょう。

 

でも再会したダイナーでケビンが前妻との子供の写真を見せることによって、シャロンが「自分は受け入れられてもらえるのだろうか?」いう葛藤こそが、描きたかったテーマの一端なのではないかと思います。

マイノリティーの要素を加えることによって、一人の人間が、愛し愛され、受け入れられる難しさを。

そして、だからこそ美しくて尊いものであると表現しているのではないでしょうか。

 

海辺でのキスやふれあいも。

ダイナーでジュークボックスを通じて語られる思いも。

ケビンの住居が海辺であることの嬉しさも。

許し会える人と、精神的にも肉体的も寄り添うことも。

金歯やイヤリング、アメ車と筋肉で武装した男性がみせる、「自分は受け入れられるのだろうか」と感じる可愛さやいじらしい仕草が、その苦悩が人は誰でも同じ存在なのだと物語っている。

私にはそう感じられました。

でも、本当はこの事に関して、セクシャルマイノリティーの事を気にしないで観れる映画として受け止められる世の中になれればいいのに、と思いました。この映画がセクシャルマイノリティーに対して偏見を持っていない事は、映像の演出を通してはっきりと分かります。でも、それは困難として、シャロンが超えなくてはならない物として、表現されている側面が少なからずあると思うのです。一人の人間を好きになるためにはある程度の条件が、故意にせよ無自覚にせよあるとは思います。例えば年上の落ち着いた人が好きだったり、同好の士であったり、容姿や匂いなど様々な物があると思います。その一つとして、セクシャルマイノリティーがあって、それがごく自然に受け止められる。つまりはカミングアウトなんて言葉自体が意味を喪失する日が来る事を私は願っています。

 

シャロンの最後は静かなハッピーエンド(あくまで許しあえる人と出逢えるという側面のみですが)として綴られますが、それは映画の中の特別な世界ではなくて、どこにでもきっとあるはずだと、礼賛される所にメインテーマがあるように私には思えるのです。

だからこそ、分かりやすく、ドラマティックに描かれず、セリフとしても多くを語らないドキュメンタリーに近い作品なのだと、観終わってからしばらくドライブをしながらしみじみ感じた作品でした。

 

観た後の感想は別れる可能性が高い映画でしたが、素晴らしい映画であったと思います。

Rー15であったけれど、いつか息子達と観たいと思わせる映画でした。

 

ゴースト・イン・ザ・シェルを観て、感じたチグハグさ。

ハリウッド版ゴースト・イン・ザ・シェルを観てきて、感想を。

そして完全にネタバレなので、出来たら観た後に読んで貰えると嬉しい限りです。

 

敢えて一言で現すと「詰め込みすぎ」の感が。

原作(アニメ版GHOST IN THE SHELL)への愛情は確かに伝わってきます。

しかし、そこに、イノセンス、STAND ALONE COMPLEX(2nd GIG  含む)の要素も。

この作品を全部観たことを、ハリウッド版でのオマージュを見れば伝わってきます。

でも、あんまりにも詰め込みすぎて、チグハグな印象を受けてしまいました。

 

世界観として街並みのチグハグな点はどうしても、、、

原作では中国(上海のネオンや九龍城のイメージでしょうか)の設定で統一されているの対し、ハリウッド版ではカタカナやひらがな、バーの中は現代、路地裏などは原作と非常にチグハグ。

監督さんが配給会社や、原作である日本へのリスペクト、原作の再現で揺れ動いた結果としてこうなったのは、仕方のない事だと思います。でも観てる方にとってはちょっと。

予備知識がない方なら「なんかこの監督は日本と中国をごっちゃにしてないか?」

原作が好きなファンなら「ミステリアスなアジアンテイストは劣化してない?」

S・A・Cが好きな人は「近未来のイメージなのに、アルコールって書いてあるネオンはどうよ?」

と、どこをとっても中途半端なイメージにしかならなかったのでは無いでしょうか?

(予備知識の無い、非日本人ならしっくりきたのかもしれないですが、、、)

 

そしてキャストについての発表の時に思っていたけど、やっぱり課長とビートたけしさんは、、、

あのダーティな課長も、パラレルワールドの表現の一つであることは分かっています。

しかし私の中での荒巻大輔こと課長とは、

静かなる闘志を義務感の内に内包し、言動が厳しくもあたたかみのある人物。

確固たる社会正義を持ち、9課を統率する姿勢を

「我々の間には、チームプレーなどという都合のいい言い訳は存在せん。

   あるとすれば、スタンドプレーから生じる、チームワークだけだ」と言い放つ。

チームを言い訳にせず、最大限の個を活かすために成すべき事を成す。

結果的にそれがチームの輪を繋ぐ。

そんな信条を体現するために、クセだらけの猛者を統率する課長には、

そんな荒巻大輔の魅力には、遠く及ばないと私は思ってしまいました。

一人だけ日本語を喋ることに対しては、もう何も言えません、、、

 

そしてバトーさん。

彼の視力を失う前と、失った後の対比は新しかったとおもいます。

でも、バトーさんの良さは、その眼を義眼レンズに変えていても迸るあの人間性だと思います。

確かに、少佐の着替えに眼を背ける事(でもこれも原作にあったな)、義眼にした後に愛犬に会うのを躊躇うことによって(でも、後々一緒にいるシーンもある)表現しているのも分かります。

しかし。

再会の合言葉を、愛車のキーとして設定したり。

普段は「少佐」としか呼ばない彼が、彼女の身を案じるが故に激情に駆られ、名前を咆哮の様に呼ぶ彼の人間くささには遠く及びません。

だからこそ、「素子」ではなく、私は「少佐」であるとするこの脚本は受け入れる事が出来ません。

自分の中の童貞性による身勝手かもしれないけど、はっきり言って嫌いです。

 

 

少佐については、自分はそこまで違和感なく観ることができました。

戦闘シーンは最初のビル内への襲撃での、ワイヤーアクションのような浮遊感はあまり好みではありませんでしたが、それ以外では少佐の力強さが表現できていた様に私には観えました。

(出来たら、脚にもう少しボリュームがあった方がもっと力強さがあったような気も)

 (そしてさすがに、バク転などのアクロバティックな動きを求めるのは酷ですかね)

 

内面については、今までのシリーズで一番精神的に弱い素子という感じでした。

弱さがあって感情移入しやすい、そしてそれを乗り越えていく。まさにハリウッド。

でも、そこは少し寂しい。

原作では、素子はミステリアスな印象で、未知に対し好奇心を抱き、自分に無頓着。

だから、サイボーグなのにダイビングをしたり、自分という「個」があやふやになる可能性に対しても楽しみを抱く。最後の「ネットは広大だわ」という一言が忘れられません。

外見は美しく(義体なので当然と言えば当然ですが)、言葉遣いも女性なのに、精神的にタフでクレバーで、凛としている彼女が骨太で(この一見すると相反する所が共存する所が)魅力的でした。

原作では、さめざめとした葛藤が(いや寧ろ楽しんでさえいたような気も)描かれていますし、

S・A・Cではそこに至るまでの彼女の葛藤が客観的に描かれていました。

それもどちらかと言うと間接的に。(腕時計の演出は秀逸)

対して主観的に、かつ悲愴感があふれている素子が描かれているハリウッド版は新鮮でした。

しかし、新鮮だった故に受け入れられない、受け入れたくない自分がいました。

要は好みの問題なのでしょうが。

 

 そしてそう思ったもう一つの理由としては、メッセージ性へのチグハグさもあったと思うのです。

 「貴方が思考することによって、貴方は確立するのだから、貴方は貴方のままでいい」

要するに、今の貴方が大事ですよという礼賛が一つのテーマなんだと私は感じました。

素子が娼婦に素顔を見せて欲しいと頼むシーンも、ここに結びつけるためだと思います。

 

でもだからこそ、素子がその名前よりも「少佐」と呼ばれる事を選ぶのが、納得がいきません。

階級で呼ばれる事は9課での誇りでもあるかもしれません。

しかし意に添わぬ短期間の着任である組織での階級を、そこまで大事にするのでしょうか。

そうすると説得力のバックボーンとしては、些か表現が弱すぎるように私には思えるのです。

 

また記憶では無く、何を成すかが重要であるというテーマなのに、「少佐」と呼ばれる事を望むという表現がちぐはぐだと感じてしまいました。

 

そして隠された記憶の復活によって、桃井かおり演じる母親との関係を再構築するという表現にもチグハグさを感じました。

いや、その隠された記憶に基づいて行動している点は矛盾とならないのでしょうか?

そんな記憶すらあやふやだと、劇中で清掃員の娘に対する記憶が改竄される事によって、電脳と記憶の乖離についての恐ろしさを表現していたのではないのでしょうか?

この様にテーマとしての根幹としても、チグハグな印象を私は持ってしまいました。

 

対して押井監督の表現ではどうでしょうか。

原作で表現されているのは、その肉体としての個を喪失したとしても、例え電子の海に拡散されたとしても、(つまりは記憶がどうであろうも)素子が変わらず素子であることの魅力が描かれているのだと私は思っています。だから原作では、素子の姿勢は一貫していると感じられましたし、遠くに行ってしまう少佐に対して、まるでバトーの様に恋慕とも思慕とも言えない感情を私は抱いたのだと思います。

 

着地点としては同じ、「素子が素子であること」であるのに、そのプロセスに綻びがある。

これが、私がちぐはぐに感じた一番大きな点だと思います。

 

結果として映像美としては素晴らしい作品でしたが、このチグハグさが原因でスッキリとしない映画だというのが一番印象として強く残ってしまいました。

 

義体のコーティングのシーンが、生まれた天使の様で綺麗だったな。

政治家さんと笑顔

自分が好きな番組の一つ。ワイドナショー

元々松本人志さんの枠から外れた視点などがとっても好きだし、コメンテーターの方のコメントが目から鱗が落ちる様な物として沢山聞けるのがその理由。

 

中でも武田鉄矢さんのコメントがとっても好きで、蓮舫さんの二重国籍の話についてのコメントはとっても良かった。

内容としては表情という点において、女優と政治家について比較した後、政治家の姿勢について独自の考えを語った。

 

政治家に必要なのは夢を語る事である。

と言うのがその内容だ。

これを、聞いて確かにそうだと強く感じた。

なるべく多くの人を幸せにするのが、政治家の本懐だとは思うのだが、その本人がちっとも幸せそうじゃなかったら、その彼らの主張はちょっとばかり暗く、私達の瞳には映らないだろうか?

 

自分の好きな漫画で「うしおととら」と言う漫画では、人の「陽の力」についての描写が終盤に出て来る。これは作中の「憎しみは何も産みません」と言った、あるキャラクターが言った言葉とも関連しているのだが、自分には「陽の力」がどれだけ人を惹きつけてやまないか、そしてどれだけ大切なのかを作者の藤田和日郎さんが、少年だった自分達に教えてくれてていたようにしか思えない。

 

確かに議会の制度自体が、数の力で構成されている以上は、相手の弱みに付け込むのは致し方ないのかもしれない。また、憎しみを糧に成長できる人もいるかもしれない。

でも。人を傷つけた行為は、いつか自分にも帰ってくるのだ。人を呪わば、穴二つ。

呪詛と共に相手に傷をつけたら、自分に傷がついたって何も言えないのだ。

勿論、殴られっぱなしだって嫌だし、時には何らかの力も必要だ。だから、反撃だってする。

 

でも、その根底には「陽の力」があって、お互いを認めあってる部分が少なからずあるはずだ。いや、あって欲しい。だって、みんな幸せになりたいから生きているのだから。

政治家さんだったら、その本懐のごとく日本のみんなが幸せになるために頑張っているのだから。

だから、いい所は認めあって、駄目な所はお互いを指摘して直す。その為には相手を許すだけの強さが必要で、その強さがあれば陽の力が根付くのではないか。

自分はそんな人間でありたい。

 

政治家の皆さんは笑顔を持って下さい。

今の日本の情勢を考えたら、笑ってられる状況じゃないかもしれないけど。

だこらこそ、笑って頑張って下さい。

それが相手の攻撃の手を緩める一つであり、相手を思いやる第一歩であり、建設的な議論への架け橋になるのではないでしょうか?

理想論かも、しれないけど、理想を語れないようならどうやって人を惹きつけるのでしょうか?

理想を語る時の姿ほど、眩しく見える姿はないと個人的は思うのですが。

 

 

 

 

障害と特徴

障害者に感動ポルノと言った文章で、とても読み応えのある文章だった。

 

しかしながら、障害を持つ人に感動を望むな。と言うのはちょっと違う気がする。

なぜなら、全ての人は生まれながらにして他の人と何かが違うからだ。

そこを、障害と呼ぶか、特徴と呼ぶか、はたまた個性と呼ぶか。これによって、人々は随分と振り回されているんじゃ無いのだろうか?

 

人間は生まれながらにして、皆平等ではない。

性差や筋力、肌の色、知力に視力・聴力。

身長、体重、年齢に家族構成などを含めれば、全ての項目で一致する人など、そうそういないだろう。

だからこれは、一人としての個としての尊厳、つまり人権としては平等であるけども、一人一人の特徴は異なるという事だ。

 

人はみんなが医者や宇宙飛行士、オリンピック選手、プロスポーツの選手になれるのだろうか?

もちろんほとんどの人がなれない。

でも、なれる人もいる。

そのなれる人だって、みんな特徴が違う。

でも、なれる人とそうじゃない人の基準はある程度はある。

と、いう事はその基準を超えるためには何かしらの努力が必要であり、またその基準を超えるための努力量は人によって様々であるはずだ。

 

この人の体の機能がどの程度の物であったかは分からない。でも、この人は知力については問題がなく、とても優秀だった。だから彼女は彼女なりに勉強したから教壇に立てたのだ。

でも彼女が勉強するにあたっても、それなりにハードルもあったはずだ。もし彼女の家庭環境に金銭的な問題があったならば、十分な教育は受けられなかっただろうし、知的障害があって十分な思考能力がなければ、教壇には立てなかっただろう。

そういった意味では、彼女は健常者(あまりこの表現自体も好きではないが)よりも、ある意味恵まれているし、また障害者の中でも恵まれていると取る事が出来ると思う。

確かに家庭環境が良くて、障害がないような人に比べれば彼女は努力しなければいけない。障害の程度によっては同一姿勢の保持や、ちょっとした移動だって人の手を借りなければいけなかったのかもしれない。

そう言った本人や周りの人の努力が、その思いが感動を生むのだと思う。

つまりは障害者の人の場合はどうしたって、ハードルが多くなりやすいのだから、努力量が多くなりやすく、その結果として感動的になりやすいと言ったのは厳然たる事実だと思う。

だから、彼女が教壇に立てたこと事が感動的なエピソードだと思っていなければ、それはある意味彼女が恵まれた存在だったという裏返しなのかもしれない。

(だからと言って、彼女の教え子のように人に感動的なエピソードを求める発言をするのは、もちろん、無神経すぎる。だってそこには障害があって辛かったんでしょう?と言ったレッテルが貼り付けられているからだ。)

 

でも。考えてみると、頑張った事が認めらるのは普通に嬉しい事なのではないのだろうか?

そこに彼女の「それは私が障害者だから、人よりも努力か必要だって言いたいの?」ってフィルターがあるから、卑屈な印象を持ってしまうだけなのではないのだろうか?

それは、ある意味彼女自身が必要以上に障害者という言葉に縛られているようにも見える。

まさに自縛自縄である。

 

さらに言うなら感動は勝手にするものだ。

だから、それを無理に作り上げたりすると気持ち悪く映る。

また、それを押し付けるのも無礼だという話。

 

これに、障害者という一要素を通すだけでこんなにややこしくなる。

 

これは、障害を持つ人、持たない人。それぞれに偏見があるって話ではないのだろうか?

 

 

 

 

鈍感であれ。

最近、意識的に文章と言うか、思考するという事に対してしっかりと取り組むようになりました。
以前から色々考えてはいたけれども、思う所やその素晴らしさを教えてくれた人がいたので、読む方も、書く方も面白いと言うことを再確認。なので、文章を書く癖をつけてみようかと。

さて、今日の題名ですが、これはいくつかの自身の近況といくつかの記事によって思うようになったこと。

基準を人に置かないと言う記事を目にしてそう思った次第。

頭では分かってはいていたけど、実感、実行できていなかったな〜と。

社会人になって、自分がいかにコミュニケーション下手であり、周りに気を使えず悩んだ日々。そこで、まわりに合わせようと努力して、何となく受け入れられるようになった。

でも、思春期にあった孤独などから疎外感から敏感にならざるを得ない自分を中々変えられず、それは、職場と職種が代わってからますます顕著になってしまった。

もちろん自分が新しい職場と職種に慣れていなかったのが原因の一端だったのだけれども、劣等感に悩む日々で、職場の人に夜勤をして引き継ぎをした後に、「何か言われてるんじゃないか」とうじうじ悩みながら帰宅する日々。

ただ、前職の事もあってそこそこ重宝されてると思う事もまた事実。

そこで気づいたことが題名の事。
結局、相手の事は100%分からない。
だったら鈍感にならないとやっていけない。
かと言って、考えていかないとまた以前に逆戻り。

だから、他人の考えを意識して、自分の考えを通す。そこで気分を害しても、周りの意見を気にして自分を殺しても、何にもならない。

この鈍感さと気を使う事のバランスを最初は意識して、次は無意識にでも出来たらいいな。