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障害と特徴

障害者に感動ポルノと言った文章で、とても読み応えのある文章だった。

 

しかしながら、障害を持つ人に感動を望むな。と言うのはちょっと違う気がする。

なぜなら、全ての人は生まれながらにして他の人と何かが違うからだ。

そこを、障害と呼ぶか、特徴と呼ぶか、はたまた個性と呼ぶか。これによって、人々は随分と振り回されているんじゃ無いのだろうか?

 

人間は生まれながらにして、皆平等ではない。

性差や筋力、肌の色、知力に視力・聴力。

身長、体重、年齢に家族構成などを含めれば、全ての項目で一致する人など、そうそういないだろう。

だからこれは、一人としての個としての尊厳、つまり人権としては平等であるけども、一人一人の特徴は異なるという事だ。

 

人はみんなが医者や宇宙飛行士、オリンピック選手、プロスポーツの選手になれるのだろうか?

もちろんほとんどの人がなれない。

でも、なれる人もいる。

そのなれる人だって、みんな特徴が違う。

でも、なれる人とそうじゃない人の基準はある程度はある。

と、いう事はその基準を超えるためには何かしらの努力が必要であり、またその基準を超えるための努力量は人によって様々であるはずだ。

 

この人の体の機能がどの程度の物であったかは分からない。でも、この人は知力については問題がなく、とても優秀だった。だから彼女は彼女なりに勉強したから教壇に立てたのだ。

でも彼女が勉強するにあたっても、それなりにハードルもあったはずだ。もし彼女の家庭環境に金銭的な問題があったならば、十分な教育は受けられなかっただろうし、知的障害があって十分な思考能力がなければ、教壇には立てなかっただろう。

そういった意味では、彼女は健常者(あまりこの表現自体も好きではないが)よりも、ある意味恵まれているし、また障害者の中でも恵まれていると取る事が出来ると思う。

確かに家庭環境が良くて、障害がないような人に比べれば彼女は努力しなければいけない。障害の程度によっては同一姿勢の保持や、ちょっとした移動だって人の手を借りなければいけなかったのかもしれない。

そう言った本人や周りの人の努力が、その思いが感動を生むのだと思う。

つまりは障害者の人の場合はどうしたって、ハードルが多くなりやすいのだから、努力量が多くなりやすく、その結果として感動的になりやすいと言ったのは厳然たる事実だと思う。

だから、彼女が教壇に立てたこと事が感動的なエピソードだと思っていなければ、それはある意味彼女が恵まれた存在だったという裏返しなのかもしれない。

(だからと言って、彼女の教え子のように人に感動的なエピソードを求める発言をするのは、もちろん、無神経すぎる。だってそこには障害があって辛かったんでしょう?と言ったレッテルが貼り付けられているからだ。)

 

でも。考えてみると、頑張った事が認めらるのは普通に嬉しい事なのではないのだろうか?

そこに彼女の「それは私が障害者だから、人よりも努力か必要だって言いたいの?」ってフィルターがあるから、卑屈な印象を持ってしまうだけなのではないのだろうか?

それは、ある意味彼女自身が必要以上に障害者という言葉に縛られているようにも見える。

まさに自縛自縄である。

 

さらに言うなら感動は勝手にするものだ。

だから、それを無理に作り上げたりすると気持ち悪く映る。

また、それを押し付けるのも無礼だという話。

 

これに、障害者という一要素を通すだけでこんなにややこしくなる。

 

これは、障害を持つ人、持たない人。それぞれに偏見があるって話ではないのだろうか?