読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ゴースト・イン・ザ・シェルを観て、感じたチグハグさ。

ハリウッド版ゴースト・イン・ザ・シェルを観てきて、感想を。

そして完全にネタバレなので、出来たら観た後に読んで貰えると嬉しい限りです。

 

敢えて一言で現すと「詰め込みすぎ」の感が。

原作(アニメ版GHOST IN THE SHELL)への愛情は確かに伝わってきます。

しかし、そこに、イノセンス、STAND ALONE COMPLEX(2nd GIG  含む)の要素も。

この作品を全部観たことを、ハリウッド版でのオマージュを見れば伝わってきます。

でも、あんまりにも詰め込みすぎて、チグハグな印象を受けてしまいました。

 

世界観として街並みのチグハグな点はどうしても、、、

原作では中国(上海のネオンや九龍城のイメージでしょうか)の設定で統一されているの対し、ハリウッド版ではカタカナやひらがな、バーの中は現代、路地裏などは原作と非常にチグハグ。

監督さんが配給会社や、原作である日本へのリスペクト、原作の再現で揺れ動いた結果としてこうなったのは、仕方のない事だと思います。でも観てる方にとってはちょっと。

予備知識がない方なら「なんかこの監督は日本と中国をごっちゃにしてないか?」

原作が好きなファンなら「ミステリアスなアジアンテイストは劣化してない?」

S・A・Cが好きな人は「近未来のイメージなのに、アルコールって書いてあるネオンはどうよ?」

と、どこをとっても中途半端なイメージにしかならなかったのでは無いでしょうか?

(予備知識の無い、非日本人ならしっくりきたのかもしれないですが、、、)

 

そしてキャストについての発表の時に思っていたけど、やっぱり課長とビートたけしさんは、、、

あのダーティな課長も、パラレルワールドの表現の一つであることは分かっています。

しかし私の中での荒巻大輔こと課長とは、

静かなる闘志を義務感の内に内包し、言動が厳しくもあたたかみのある人物。

確固たる社会正義を持ち、9課を統率する姿勢を

「我々の間には、チームプレーなどという都合のいい言い訳は存在せん。

   あるとすれば、スタンドプレーから生じる、チームワークだけだ」と言い放つ。

チームを言い訳にせず、最大限の個を活かすために成すべき事を成す。

結果的にそれがチームの輪を繋ぐ。

そんな信条を体現するために、クセだらけの猛者を統率する課長には、

そんな荒巻大輔の魅力には、遠く及ばないと私は思ってしまいました。

一人だけ日本語を喋ることに対しては、もう何も言えません、、、

 

そしてバトーさん。

彼の視力を失う前と、失った後の対比は新しかったとおもいます。

でも、バトーさんの良さは、その眼を義眼レンズに変えていても迸るあの人間性だと思います。

確かに、少佐の着替えに眼を背ける事(でもこれも原作にあったな)、義眼にした後に愛犬に会うのを躊躇うことによって(でも、後々一緒にいるシーンもある)表現しているのも分かります。

しかし。

再会の合言葉を、愛車のキーとして設定したり。

普段は「少佐」としか呼ばない彼が、彼女の身を案じるが故に激情に駆られ、名前を咆哮の様に呼ぶ彼の人間くささには遠く及びません。

だからこそ、「素子」ではなく、私は「少佐」であるとするこの脚本は受け入れる事が出来ません。

自分の中の童貞性による身勝手かもしれないけど、はっきり言って嫌いです。

 

 

少佐については、自分はそこまで違和感なく観ることができました。

戦闘シーンは最初のビル内への襲撃での、ワイヤーアクションのような浮遊感はあまり好みではありませんでしたが、それ以外では少佐の力強さが表現できていた様に私には観えました。

(出来たら、脚にもう少しボリュームがあった方がもっと力強さがあったような気も)

 (そしてさすがに、バク転などのアクロバティックな動きを求めるのは酷ですかね)

 

内面については、今までのシリーズで一番精神的に弱い素子という感じでした。

弱さがあって感情移入しやすい、そしてそれを乗り越えていく。まさにハリウッド。

でも、そこは少し寂しい。

原作では、素子はミステリアスな印象で、未知に対し好奇心を抱き、自分に無頓着。

だから、サイボーグなのにダイビングをしたり、自分という「個」があやふやになる可能性に対しても楽しみを抱く。最後の「ネットは広大だわ」という一言が忘れられません。

外見は美しく(義体なので当然と言えば当然ですが)、言葉遣いも女性なのに、精神的にタフでクレバーで、凛としている彼女が骨太で(この一見すると相反する所が共存する所が)魅力的でした。

原作では、さめざめとした葛藤が(いや寧ろ楽しんでさえいたような気も)描かれていますし、

S・A・Cではそこに至るまでの彼女の葛藤が客観的に描かれていました。

それもどちらかと言うと間接的に。(腕時計の演出は秀逸)

対して主観的に、かつ悲愴感があふれている素子が描かれているハリウッド版は新鮮でした。

しかし、新鮮だった故に受け入れられない、受け入れたくない自分がいました。

要は好みの問題なのでしょうが。

 

 そしてそう思ったもう一つの理由としては、メッセージ性へのチグハグさもあったと思うのです。

 「貴方が思考することによって、貴方は確立するのだから、貴方は貴方のままでいい」

要するに、今の貴方が大事ですよという礼賛が一つのテーマなんだと私は感じました。

素子が娼婦に素顔を見せて欲しいと頼むシーンも、ここに結びつけるためだと思います。

 

でもだからこそ、素子がその名前よりも「少佐」と呼ばれる事を選ぶのが、納得がいきません。

階級で呼ばれる事は9課での誇りでもあるかもしれません。

しかし意に添わぬ短期間の着任である組織での階級を、そこまで大事にするのでしょうか。

そうすると説得力のバックボーンとしては、些か表現が弱すぎるように私には思えるのです。

 

また記憶では無く、何を成すかが重要であるというテーマなのに、「少佐」と呼ばれる事を望むという表現がちぐはぐだと感じてしまいました。

 

そして隠された記憶の復活によって、桃井かおり演じる母親との関係を再構築するという表現にもチグハグさを感じました。

いや、その隠された記憶に基づいて行動している点は矛盾とならないのでしょうか?

そんな記憶すらあやふやだと、劇中で清掃員の娘に対する記憶が改竄される事によって、電脳と記憶の乖離についての恐ろしさを表現していたのではないのでしょうか?

この様にテーマとしての根幹としても、チグハグな印象を私は持ってしまいました。

 

対して押井監督の表現ではどうでしょうか。

原作で表現されているのは、その肉体としての個を喪失したとしても、例え電子の海に拡散されたとしても、(つまりは記憶がどうであろうも)素子が変わらず素子であることの魅力が描かれているのだと私は思っています。だから原作では、素子の姿勢は一貫していると感じられましたし、遠くに行ってしまう少佐に対して、まるでバトーの様に恋慕とも思慕とも言えない感情を私は抱いたのだと思います。

 

着地点としては同じ、「素子が素子であること」であるのに、そのプロセスに綻びがある。

これが、私がちぐはぐに感じた一番大きな点だと思います。

 

結果として映像美としては素晴らしい作品でしたが、このチグハグさが原因でスッキリとしない映画だというのが一番印象として強く残ってしまいました。

 

義体のコーティングのシーンが、生まれた天使の様で綺麗だったな。